」出演:門田芦子、巽寿美子、三浦時子、橘薫、天津乙女]] の畔に建つ宝塚歌劇団の劇場群、宝塚音楽学校]] ・宝塚バウホール入口]]
宝塚歌劇団(たからづかかげきだん、英称:Takarazuka Revue Company)は、兵庫県宝塚市を本拠地に、未婚の女性だけで構成されている日本の歌劇団。阪急電鉄株式会社の直轄組織となっており、同社の社内部署「創遊事業本部歌劇事業部」が事業運営を行っている[http://dentetsu.hankyu.co.jp/company/soshiki.html 阪急電鉄株式会社 業務組織]。このため劇団員は同社の社員扱いとなっている。
理事長は小林公一(創始者小林一三のひ孫、阪急阪神ホールディングス取締役)。
宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)と、東京宝塚劇場(東京都千代田区)を中心に公演を行っている。また、中劇場の宝塚バウホール(宝塚市)も所有。2001年より、劇場中継や公演案内を中心とした専門チャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE」の東経110度CS放送が行われている。
創設の当初から「老若男女誰もが楽しめる国民劇」を目指し、日本で初めてレヴューを上演した劇団として、一躍有名になった。現在も、健全かつどの世代の人が見ても楽しめる演目を中心に、芝居(ミュージカル)やレヴューを上演し続けている。ジャンルは古今東西を問わず、歴史劇、ファンタジー、そしてSFまで多岐にわたる。
舞台に出演するのは宝塚音楽学校の卒業生であり、全員が未婚女性である。退団後の再入団も認められておらず、外部の俳優が本公演に出演することもない。また団員が在団中に外部の舞台・テレビなどに出演することは少ない。団員の育成が、大きな特徴の一つであり、本公演の稽古期間は公演日数とほぼ同じである。また若手スターの勉強の場として新人公演が開催されたり、団員向けの劇団レッスン(無料)等も開講されている。
収容数2000人以上という大規模劇場で常時公演し、舞台上には照明が当てられていることから、遠目からでも演者の表情が分かるように、大き目の付けまつげ、厚めのドーラン、強いアイライン等殆どの演者が濃いメイクをしているのも特徴であり、現在では濃い化粧の慣用句として「宝塚(歌劇)風」といった表現が使われることがある。このメイクは宝塚大劇場内にある「サロン・ド・タカラヅカ」で予約をすれば一般客(女性のみ)も体験が可能である。
女性だけの劇団であるため、男性役も女性が演じる。男性の役を「男役」・女性の役を「娘役」と言う。身長を目安に、劇団併設の宝塚音楽学校にどちらかを優先的に希望することになっているが、公式に定められてはいない。また、入団後、男役→娘役への転向は多数の例があるが、娘役→男役の転向例は極めてまれである。創設初期の頃は娘役に人気が集まったが、現在は男役の方がファンの人気が高い。そのため舞台構成なども男役を中心に作られる。
劇団のシンボルソングのようになっている「すみれの花咲く頃」は戦前のドイツ映画主題歌「リラ(またはライラック、ニワトコ)の花咲く頃」をフランスでシャンソン化して歌われているのを聴いた白井鐵造が持ち帰って詞をつけたもの(原曲のドイツ語版のCDなども発売されている)。歌劇団のみならず阪急百貨店の開店時にも演奏されるなど阪急阪神東宝グループの象徴的なテーマ曲となっている。
団員は、劇団付属の「宝塚音楽学校」で予科1年・本科1年のあわせて2年間の教育を受けることになっている。また、宝塚歌劇団入団の条件も、音楽学校の卒業生に限られている。劇団員の正装は、黒の紋付に緑(オリーブ色)の袴であり、各種式典・退団時に着用する。
1939年(昭和14年)まで劇団員は「宝塚音楽舞踊学校(当時)の研究科生徒」という扱いであった。現在でもその名残から、生徒の入団年数を「研究科○年」略して「研○」と公式に呼んでいる(例:入団1年目の生徒は「研究科1年=研1」)。
1977年(昭和52年)入団生(63期生)から通称「(結婚)適齢期定年制度」が導入された「おお宝塚60年 『ドンブラコ』から『ベルばら』まで」朝日新聞社、1976年11月発行。これにより、“女子技芸員”として社員扱いをされていた生徒は、一定の学年になると“タレント”として新たに個別契約を結ぶ。従来は入団7年目(研7)がタレント契約の時期だったが、2007年(平成19年)入団生(93期生)から、入団6年目へ契約時期が早められた朝日新聞2006年1月23日夕刊「宝塚トップスターの任期に異変 近ごろのスミレの命短くて」。
なお、諸事情により次回公演の稽古集合日付け、定年の誕生日付け、千秋楽翌日付けなどで退団する生徒もいる。その場合は本人から直接観客への挨拶をする機会はないが、機関誌の「歌劇」に退団の挨拶文が掲載される。
各組には組長・副組長がいる。組長は組を統括・管理し、公私にわたって組子の面倒を見ている。最上級生が就任することが多い。副組長は組長を助け、組を統括・管理し、組長に事故があるときはその任務を代行する。
組長 副組長
花組(はなぐみ) 夏美よう 高翔みず希
月組(つきぐみ) 越乃リュウ 花瀬みずか
雪組(ゆきぐみ) 飛鳥 裕 麻樹ゆめみ
星組(ほしぐみ) 英真なおき 万里柚美
宙組(そらぐみ) 寿つかさ 鈴奈沙也
専科(せんか) --
各組のスターの頂点に立つ男役が「主演男役」(通称:トップスター)と呼ばれ、各公演で主演を務める。そのため、脚本はトップスターに当てて書かれている。また、トップスターの相手役を務める娘役のことは「主演娘役」(通称:トップ娘役)と呼ばれる。各公演でヒロイン的な役を演じている。他の商業演劇とは異なり、在任中はずっと同じ生徒が主演をつとめる。
トップスター以下、2番手、3番手…などという呼び方をするが、トップスター以外は明確に固定された地位ではないため、変動することがある。例えば天海祐希は昇進が早く、彼女より上級生が下位のスターとなったこともある。特に娘役は、トップ娘役以外は男役以上に安定していない。2番手男役は、トップスターに次ぐポジションであることから、「準トップ」と呼ばれることもある。
スターは、容姿・スター性(華やオーラ)・人気も重要な要素であり、実力者がスターになれるとは限らない。例えば、真矢みき・檀れい等はいずれも入団時の席次は下位(檀にいたっては最下位)であったが、その後の努力や人気が評価されてトップスター(檀はトップ娘役)に就任した。
現在のようなスターシステムは、1980年代に確立された。それ以前では、トップが2人であったり、公演ごとに主演者が異なったり、またスターの他組への特別出演が現在よりも多く実施されたりするなど、より柔軟性に富んだ配役を行なっていた。
路線に乗った生徒は、本公演でも徐々に大きな役・ソロ場面・より豪華な衣装が与えられていく。応援するスターの成長・昇進を見守るのもファンの楽しみの一つであり、宝塚歌劇の大きな魅力になっている。
トップスターになるためには、以下の条件が必須とされている。ただし昇進の早かった黒木瞳等は一部の条件を満たしておらず、例外もあり得る。
(以下は男役のみ)
など多岐にわたる。
一方、遅い例としては研18の大空祐飛(1992年入団 → 2009年就任)、研16の紫吹淳・香寿たつき(共に1986年入団 → 2001年就任)・安蘭けい(1991年入団 → 2006年就任)・霧矢大夢(1994年入団 → 2009年就任)等が挙げられる。早い理由は圧倒的なスター性の評価・人気など。逆に遅い理由としては、人事によるところが大きい。
娘役の場合では、就任時期は一概に言えず、最速は黒木瞳の研2(1981年入団 → 1982年就任)で、他に研3の麻乃佳世(1988年入団→1990年就任)・千ほさち(1994年入団 → 1996年就任)・映美くらら(1999年入団 → 2001年就任)等がいる。遅い例としては研14の渚あき(1988年入団 → 2001年就任)らが挙げられる。人気は男役が圧倒的なため、相手役と容姿が釣り合うか否か、ダンス・演技の組み易さ等がトップ娘役の重要な選定基準であり、就任時期は様々である。娘役は入団10年未満での就任が多く、学年も相手役より下級生であることがほとんどである。
トップスターに就任すると、専科へ異動する極少数の例(榛名由梨・轟悠など)を除き、数年で退団することになる。すなわち公演回数にして4〜10回程度が目安となるが、後継スターの成長・本人の意欲、また健康上の理由等で変動する。特にスターシステムの確立以降は、就任から退団公演までの期間が短くなってきているという。その要因として、トップに就任するまでの期間が長くなっていることと、メディアが多様化し、舞台以外の場所での活躍ができるようになったことが指摘されている。
短期の例は、匠ひびき(2001年 - 2002年)・絵麻緒ゆう(2002年)・貴城けい(2006年 - 2007年)の1年未満(1公演)が代表的であるが、いずれも退団理由が人事上の問題というのが明確であり、劇団の姿勢がファンから激しく非難された。
長期の例は、トップ娘役を12年に渡り務めた花總まり(1994年 - 2006年)が代表的であるが、これは他と比較しても極めて稀な例である。他に和央ようか(2000年 - 2006年)の6年、南風まい(1983年 - 1988年)・剣幸・こだま愛(共に1985年 - 1990年)・麻乃佳世(1990年 - 1995年)・春野寿美礼(2002年 - 2007年)の5年といった例がある。
スターシステム確立以前では、鳳蘭(1970年 - 1979年)・榛名由梨(1973年 - 1982年)の9年、安奈淳(1970年 - 1978年)の8年などの例がある。さらに以前に遡ると、春日野八千代などは20年以上に渡り多数の主演をしている。
トップスター・トップ娘役クラス、またはそれに準ずるクラスの退団者になると、出演公演の足跡を振り返る「サヨナラショー」公演が行われることもある。また、トップスターのみ千秋楽の退団挨拶の際、正装である黒紋付と緑の袴ではなく、他の衣装(燕尾服・タキシード等)を着用することが許されている。退団は多くのマスコミが取り上げ、また熱烈なファンは複数回観劇する・記念グッズを購入するなど「歌舞伎は襲名披露で稼ぎ、宝塚は退団公演で稼ぐ」とまで言われる2002年4月29日 産經新聞[http://www.sankei.co.jp/enak/sumirestylevintage/takara/020429.html 「激流の中の宝塚」]。
これら本公演の間の公演の場合は、たいてい各組ともトップスターが主演するチームと、2番手以下が主演するチームの二手に分かれて公演を行う。個々の公演の人数は少なくなるため、若手団員にも目立つ役が付く・スター以外の団員にも見せ場が有る等、チャンスと経験を与える場ともなっている。
現在はロングランシステムを採用していないため、いずれの公演形態においても、公演期間が延長されることはない。ただし、月組の「ミー・アンド・マイガール」が同年のうちにほぼ同キャストで大劇場で再演されたことが、現在の公演形式が確立されて以後唯一の“ロングラン”例である。バウホール公演では観客動員により、東京での続演(東上)が急遽決定する場合もある。逆に、観客動員が悪いからといって、上演打ち切りになることも無い。
理事ら「公演編成委員」が、半年に一度、座付き演出家の脚本・企画書を協議し、ラインナップを決定していく。
1939年(昭和14年)以前についての詳細は宝塚音楽学校もあわせて参照
1918年(大正7年)、帝国劇場での公演を行い、東京進出。同年には雑誌『歌劇』が創刊される。「クレオパトラ」でヒロインを交代で演じた雲井浪子・篠原浅茅が人気を博した。この年の平均入場者数は2000人/日で、徐々にその人気を伸ばしつつあった。
1919年(大正8年)、私立学校としての認可が下り宝塚音楽歌劇学校設立。少女歌劇養成会は解散し、新たに宝塚少女歌劇団として発足。予科1年・本科1年と研究科からなる学校組織となった。1921年(大正10年)、公演の増加により花組・月組に分割。
1923年(大正12年)1月22日、パラダイス劇場・公会堂劇場が焼失。急遽建造された宝塚中劇場での公演を経て、翌1924年(大正13年)に3000人収容(当時)を誇る宝塚大劇場が完成した。大劇場完成に先立ち、雪組が新設された。当時の宝塚は、宝塚指定席・温泉入場券・カレーライスが各30銭で「一圓あれば一日遊べる」まさに総合娯楽施設だった。1925年(大正14年)からは、年12回の本公演が行われるようになる。
1926年(大正15年)、大阪松竹歌劇団が「春のおどり当時の仮名遣いでは"をどり"が正しく、意図的に題名をひねったもの。OSKは現在まで一貫して"おどり"表記を用いている」を上演した翌年、宝塚も「春のをどり」を上演する。以後20世紀末まで「春の踊り/をどり/おどり」等として春先に日本物ショーが上演されることが定番となった。
1927年(昭和2年)、岸田辰弥が欧米遊学から帰国。この経験を生かし、日本人の旅行記をテーマにしたレビュー「モン・パリ」が制作され、9月1日より上演。画期的な内容が大ヒットする。当時としては露出の高い豪華な衣装も話題となった。また、ラインダンスが初めて登場。以後、少女歌劇のレビューに欠かせないものとして定着する。劇団は演出家を積極的に海外へ送った。白井鐵造が帰国後、1930年(昭和5年)に制作したのが「パリ・ゼット」である。この作品中に「おゝ宝塚」「すみれの花咲く頃」が登場し、宝塚歌劇を代表する楽曲として定着した。レビューの誕生に前後して、男役が登場し人気が集まり始めた。
同時期、松竹歌劇団では断髪した男役:水の江瀧子が国民的人気を集めていた。宝塚では1932年(昭和7年)の「ブーケ・ダムール」稽古中に門田芦子が髪を短くし、神代錦らが後に続いた。
1933年(昭和8年)、星組の新設・専科制度の充実等の改革が行われる。この年上演された「花詩集」は花をテーマとしたレビューで、翌1934年(昭和9年)に東京宝塚劇場のこけら落としとしても上演された。当時の団員数は約300名と大規模なものになっていた。葦原邦子と小夜福子の二枚目男役コンビが人気を集めた。
(昭和23年)「再び君が胸に」(中央男役:越路吹雪、女役:深緑夏代)]]
1934年(昭和9年)の「太平洋行進曲」を皮切りに、作品タイトルにも戦争を意識した題名が表れる。他に「少年航空兵」「満州より北支へ」等といったものが見受けられる。このさなか1938年(昭和13年)10月から翌年3月にかけて、神戸港から客船で当時の同盟国、ドイツ・イタリアへ劇団史上初の海外公演を行う。
1938年(昭和13年)に星組を廃止し、同年12月に学校と劇団を完全に分離した。1940年(昭和15年)には大日本国防婦人会宝塚少女歌劇団分会が発足し、全生徒が加入した。軍需工場・軍病院へ慰問するようになる。同年、宝塚歌劇団に改称。
1940年(昭和15年)には外来語のタイトルが消滅し、1941年(昭和16年)12月8日の日米開戦以後は、ほぼ全ての公演に軍国主義的な演目が登場する。1942年(昭和17年)からは満州国での公演が行われた。
1943年(昭和18年)3月、戦争の激化によってついに宝塚大劇場が閉鎖され、海軍へ接収された。最終公演は「翼の決戦」であり、"夢"のない軍国主義的内容であっても、ファンが殺到し宝塚大橋を越えて宝塚南口駅付近まで長蛇の列を作ったという。大戦中は、全国各地での慰問公演を中心に細々と活動し、一方で女子挺身隊として工場等で労働を行った。
第二次世界大戦終結後の1946年(昭和21年)、宝塚音楽舞踊学校が宝塚音楽学校に改称。そして、4月22日より宝塚大劇場が公演を再開。再開第1作は「カルメン」「春のおどり」の二本立てで、大戦中に入団した計3期69名がラインダンスを披露した。しかし東京宝塚劇場は進駐軍に接収されていたため、1947年(昭和22年)より再開された東京公演は日本劇場・帝国劇場などで行われた。翌年には10年ぶりに星組が復活した。
花組の越路吹雪&新珠三千代コンビ、そして雪組の春日野八千代&乙羽信子コンビが絶大な人気を博した。特に春日野は戦前から長期間にわたり二枚目男役スターとして第一線で活躍し、困難な時代に宝塚を支え続けた功績は極めて大きい。
1951年(昭和26年)、「虞美人」が初演。馬が登場する等迫力ある舞台が大ヒットし、ロングランを続けた。他にも「ジャワの踊り子」等の名作が数多く誕生している。
1955年(昭和30年)には、ついに東京宝塚劇場公演が再開された。
1958年(昭和33年)には、天覧・台覧公演が相次いだ。4月1日に東京宝塚劇場で香淳皇后・皇太子明仁親王・義宮正仁親王・秩父宮妃が「花詩集」を、10月30日には昭和天皇・皇后・義宮正仁親王・清宮貴子内親王が「光明皇后」「三つのワルツ」を鑑賞。さらに、翌11月1日には皇太子明仁親王が単独で宝塚大劇場で「秋の踊り」を観劇した。となった。また、宝塚音楽学校が前年から二年制になった影響で、この年の初舞台生はいない。(ただしこの年の音校本科生は舞台実習の名目で4月花組公演「花のなかの子供たち」に出演しており、実質的にはこれが初舞台。)一方で4月1日に宝塚大劇場で月組・香月弘美がセリに巻き込まれ死亡するという凄惨な事故も発生している。なお、この事故によりセリは使用中止になり翌年に安全装置が完成した。
1960年(昭和35年)の「華麗なる千拍子」(寿美花代主演)は大ヒット作となった。宝塚のみならず、主題歌もヒットした。東京での再演の後、翌1961年(昭和36年)に芸術祭賞を受賞した。翌年も、九州の郷土芸能をテーマにした「火の島」で同賞を受賞している。明石照子・寿美花代らが人気を集め、その退団の際には「さよならショー」が上演された。これは今日でも恒例である。寿美、明石が去った後の1960年代中期には、マルサチオソノの愛称で知られる那智わたる、内重のぼる、藤里美保がファンから多大な支持を受けた。
1960年代後半には、海外から振付家を招聘し「シャンゴ」(真帆志ぶき主演)等のこれまでの宝塚のイメージと異なるショーが誕生した。「ウェストサイド物語」「オクラホマ!」「回転木馬」といった海外ミュージカルの日本初演も、この時期の宝塚である。なお「ウェストサイド物語」は芸術祭賞を受賞した。3Kトリオこと甲にしき・上月晃・古城都らが人気を集めた。
また、1968年(昭和43年)6月より、本公演において若手団員による"新人公演"が定例となった。当初は2回ずつ別のメンバーで行われていたが、1984年(昭和59年)以降は1回のみとなる。
1970年(昭和45年)の大阪万博に際し、万博会場と同じ阪急沿線の宝塚も観客を呼び込もうと「タカラヅカ EXPO70'」を上演。上月晃らスターの退団と重なったことで、狙い通り連日満員の大盛況となった。この時、万博の観光客(従来のファン以外)を退屈させないよう公演時間を短縮し、2幕2時間半、幕間に30分休憩での公演形式が確立された。
テレビの普及・娯楽の多様化に伴い、劇場稼働率は低下し、赤字が続くようになっていった。一部のマスコミから「宝塚とブレーブス球団は阪急の2大お荷物」と呼ばれたこともある朝日新聞 1990年5月2日夕刊「きょうも舞台に名花咲く 記者が見た宝塚30年」。また、人件費節約のため、1972年(昭和47年)4月に定年制度導入(満57歳定年)が発表され、同年7月1日より導入された。
このような宝塚の窮地を救ったのが、1974年(昭和49年)に植田紳爾が脚色した「ベルサイユのばら」であった。社会現象を巻き起こしていた同漫画を舞台化するや否や大ヒット。空前の宝塚ブームを巻き起こした。少女のファンが急増したことで、宝塚音楽学校の倍率もそれまでの5倍から20倍前後の難関となり「東の東大、西のタカラヅカ」と呼ばれるようになる。ベルばらシリーズで主要な役を務めた榛名由梨・鳳蘭・安奈淳・汀夏子は「ベルばら四強」と呼ばれ人気を集めた。
1975年(昭和50年)には、公演期間が約一ヶ月半の年8回公演となる。翌1976年(昭和51年)宝塚ブームの冷めぬうちに「風と共に去りぬ」を上演。榛名が二枚目男役として初めて髭を付け、好評を博した。1970年代より柴田侑宏が「星影の人」「あかねさす紫の花」といったオリジナル名作を多数発表する。
1978年(昭和53年)、宝塚バウホールが開場。初演は「ホフマン物語」。スター・スタッフの育成を目的に、実験的な公演が行われている。
この時期、1970年代後半より、スターが円形の羽を背負うのが恒例になる。徐々に巨大化し、より舞台を華やかにしている。
同時に、私設ファンクラブの活動も活発になる。1980年代初頭までは、劇団員に手渡しで飲食物の差し入れをする・劇団員がその場でファンを喫茶に誘う集英社コバルト文庫「タカラヅカ・グラフィティ」武田武彦・橋倉正信:編等、団員とファンは近い存在だったことが伺えるが、現在ではこのような行為はない。また、集団での過剰な拍手が機関誌の投書欄で問題視されることも多い「宝塚グラフ」1982年4月号・1987年3月号など。出演者への掛け声も禁止されている。
組替えがあるもののスターの地位が固定されることで、トップスターと二番手男役スターの掛け合いやコンビーネーションに人気が集まった。例えば、雪組の麻実れい・寿ひづる・遥くららの3人はゴールデントリオと謳われた。
また、各組の特色も徐々にはっきりしていき、特に昭和末から平成初期にかけては、「ダンスの花組」「芝居の月組」「日本物の雪組」「コスチュームの星組」と呼ばれた。
1982年(昭和57年)、トップスター松あきら・二番手男役寿ひづるが共に「夜明けの序曲」で退団。観客と一体となった舞台の熱気はすさまじく、芸術祭大賞を受賞した。
1985年(昭和60年)、月組トップコンビの大地真央・黒木瞳が同時に退団した。以後、トップスターとその相手役が同時退団することは珍しくなくなったが、このことについて「良い部分を次代のスターに継承できない」との批判もある大阪書籍「宝塚グラフィティ」。
1989年(昭和64-平成元年)、昭和天皇の崩御をうけ、当日・翌日の全公演を自粛。大喪の礼当日も公演を自粛した。同年から"20世紀最後"と銘打った「ベルサイユのばら」の再演が開始され、1970年代の初演に対し「平成のベルばら」と称される。うち1991年(平成3年)には、月組「ベルサイユのばら」を皇太子徳仁親王が観劇した。
1992年(平成4年)、雪組「忠臣蔵」をもって宝塚大劇場を閉場。1993年(平成5年)に、新・宝塚大劇場が開場した。こけら落とし公演は「宝寿頌」「PARFUM DE PARIS」。春日野八千代他、各組のトップスターが日替わりで出演することに加え、高田賢三デザインの衣装が話題となる。高田はメイク・靴等も担当したため、その影響は大きく、この公演を境に舞台メイクがよりナチュラルに変化していった。
1995年(平成7年)1月17日、阪神大震災が発生。劇団員に死者は出なかったものの、本拠地での公演中止を余儀なくされた。同年3月31日からの「国境のない地図」にて公演を再開するものの、この後、観客動員数は大幅に低下し、元の水準に戻ったのは2001年(平成13年)のことである。
1996年(平成8年)、「エリザベート」が雪組にて日本初演(主演:一路真輝)。「死神」という暗いイメージに前評判はいまひとつだったが、初日が開いたとたんに絶大な支持を集める大ヒット作品となった。その後も複数回再演され、定番の演目の一つとなった。
1997年(平成9年)12月、旧・東京宝塚劇場が閉場し、新築立て替え工事を開始。工事期間は、帝国劇場を2回使用した後有楽町駅付近に立てられた仮設劇場・TAKARAZUKA1000days劇場で公演が継続され、その名の通り約1000日間使用された。
1998年(平成10年)1月、東京での通年公演実現のため、宙組が新設される。香港公演「夢幻宝寿頌」「This is TAKARAZUKA!」が組として最初の公演となる。
2000年(平成12年)5月、当時の2番手・3番手男役スター10名全員が専科へ移籍することが発表された。突然の事態にファンは騒然となり、公式HPにアクセスが殺到した[http://www.sponichi.co.jp/osaka/ente/takarazuka/backnumber/000605/takarazuka.html スポニチ大阪「突然の発表にファン大パニック 新専科制度導入の真意」]。
専科には、黎明期に分野別に実力のあるスターが配属された他、1970年代まではスターが所属し各組へ主演格で特別出演していた。しかし、スターシステムの確立以後は、ベテラン脇役が所属するのが慣例であり、スター10名が一度に移籍するのは珍事であった。劇団は、従来の専科と異なりスターとして特別出演すると説明したため、2000年の人事異動は「新専科」と通称される。
2001年(平成13年)、新・東京宝塚劇場が開場。建設期間中、仮設の1000days劇場の稼働率(1998-2000年の三年間)は実に96%を誇った[http://www.sankei.co.jp/enak/sumirestylevintage/takara/kaiken.html 産經新聞2001年1月19日、記者会見要旨]。人口は多いが劇場の小さい東京はほぼ100%を堅持しているが、人口が少なく劇場の大きい宝塚は90%前後となっている日本経済新聞 2009年06月23日夕刊。
しかしながら、通常公演でチケットが完売することも稀になっており観客動員数は年々低下している。少子化の影響もあり、隣接していた宝塚ファミリーランドは閉鎖された。歌劇団の制作部企画室もファンの高齢化を指摘している。新たなオリジナル名作・良作もなかなか誕生せず、人気演目「ベルサイユのばら」「エリザベート」の再演頻度も高くなってきている。
2009年(平成21年)には、5組化以降の懸案だった年10回の本公演を実現。ただし、東西両方の劇場で従来のA席・B席を大幅に減らした上でSS席・S席のチケットを値上げした。高級感のある高額なグッズ・土産物の販売等も行われており、かつてのような映画料金よりも安い"庶民の娯楽"からは遠ざかりつつある。
宝塚歌劇団は、90周年を迎えた際に「百年への道」と冠した合唱を披露、95周年を迎えた際には同題でイベントを開催する等、来る2014年(平成26年)に迎える創設100周年を強く意識している。だが、集客力のあるスターの確保・育成とファン層の拡大が大きな課題となっている。
1919年(大正8年)、宝塚音楽歌劇学校に選科を設けて8人の男子生徒を入学させたが、10ヶ月後に解散している。
第二次世界大戦後、1945年(昭和20年)から3年間、公募により宝塚音楽学校に男子学生が13名入学した「宝塚70年史」の記述より。他説あり。数年間のレッスンを経た後のデビューを目指した。しかし、女子劇団員やファンらの反対により、最後まで本公演には出演することはなく陰コーラスを歌ったのみに留まる。他に1947年(昭和22年)12月に女子団員1名と共演し宝塚中劇場でオペレッタ「さらば青春」を上演した。最終的に、1954年(昭和29年)に、解散となった2007年1月22日付配信 毎日新聞。男子劇団員のうち数名は宝塚新芸座へ移籍し活躍。他に西野バレエ団創始者の西野皓三らがいた。一方で芸能界から引退し、宝塚にいた頃の事を秘密にしていた者も多かった。
2007年に戦後の男子部をモデルとした劇作品、宝塚BOYSが全国で上演された(2008年に再演、2010年に再々演予定)。
主演男役 主演娘役 2番手男役
花組 真飛 聖 蘭乃はな 壮 一帆
月組 霧矢大夢 蒼乃夕妃 龍 真咲
雪組 水 夏希 愛原実花 音月 桂
星組 柚希礼音 夢咲ねね 凰稀かなめ
宙組 大空祐飛 野々すみ花 蘭寿とむ
阪急百貨店には「宝塚コーナー」があり、関連書籍のほかグッズを販売している。関連商品にはネクタイなど男性向けのものもある。
また、1969年(昭和44年)〜1979年(昭和54年)までは、関西テレビのバラエティやドラマに出演するため若手団員がバンビーズに選ばれていた。バンビーズからは後のトップスター/トップ娘役を含むスターも数多く誕生している男役:峰さを理・高汐巴・寿ひずる・日向薫ら。娘役:東千晃・遥くらら・秋篠美帆ら。
なお「タカラヅカ花の指定席」での提供読みは「この番組は、阪急電車と楽しさあふれるお買物、阪急百貨店がお送りします(した)」。それ以前は提供読みがなく「提供 阪急電車 阪急百貨店」の表示に歌のない阪急のテーマソングが流れていた。
現在は東京MXテレビ制作の「TAKARAZUKA CAFE BREAK」を提携の放送局にて視聴できる。
極めて稀ではあるが、劇団員がテレビドラマにレギュラー出演することもある。1994年度上半期、NHK朝の連続テレビ小説「ぴあの」に純名里沙(当時:雪組、後に花組トップ娘役)が現役タカラジェンヌとして初めてNHKの朝ドラのヒロインを務めた。また、TBSの朝ドラには、遥くらら(後に雪組トップ娘役)が、TBSのドラマには、鮎ゆうき(後に雪組トップ娘役)が、主演したことがある。
その他、バラエティ番組やドキュメンタリ番組に現役の現役タカラジェンヌが出演することもある。
2001年(平成13年)7月、宝塚歌劇の劇場中継を中心に、劇団員の特集やバラエティを放送する専門チャンネル「TAKARAZUKA SKY STAGE」を東経110度CS放送のスカイパーフェクTV!2にて放送開始。2007年2月時点ではその後継であるスカパー!e2、および一部のケーブルテレビなどで視聴できる。スカパー!e2における他のチャンネルとは異なり、番組を制作する阪急電鉄自身が、総務省より委託放送事業者の認定を受けている。
その他、下記の衛星放送チャンネル内で宝塚の番組を視聴することができる。☆印は、TAKARAZUKA SKY STAGEでも視聴可能な番組。
2009年(平成21年)12月23日には、NHK-FMにて、「今日は一日 ゛タカラヅカ¨ 三昧」という特別番組が放送された。12:15〜23:00までという10時間45分という長時間放送で、総合MCは真琴つばさが担当。現役・OGが多数出演し、フリートークや楽曲のリクエストコーナーなどバラエティに富んだ内容の企画だった。
2009年(平成21年)6月公開、第一弾の「ソロモンの指輪」(2008年雪組公演)が上映され、第21回東京国際映画祭にも出品された。
2010年(平成22年)2月に、第二弾の「太王四神記 ver.?」(2009年星組公演)が全国25の映画館で上映された。
10月に、第三弾の「THE SCARET PINPERNEL」(2010年月組公演)が先行上映、2011年(平成23年)1月から全国ロードショーされる予定。
)※日本での上演]]